
21世紀の改革
2R1(Religious Reformation in the 21st Century21世紀の宗教改革)
モットー:神は十字架のイエスの身許に共にいました。
〇2R1運動の存在理由:人類が最も読んできた書物の神学的主張の一つの中心(パウロの信に基づく義Rom.3:21-31(「鍵」箇所))の二千年におよぶ誤訳(とりわけ3:22)が訂正されるとき、カトリックとプロテスタントの争いを初め神学、聖書学の論争の歴史を和解に導きうるかの挑戦。
〇提案翻訳(ローマ書3:19-31):「神の義はイエス・キリストの信を介して[神が嘉みする]信じる者すべてに明らかにされてしまっている。なぜなら、分離はないからである」(3:22)。これは十字架上における父と子の協働行為に基づく神の前の信義不分離の福音のパウロによる報告である。
「 一九われら知る、律法が語りかけるのは、律法のもとにある者たちに告げることがらは何であれ、すべての口がふさがれそしてすべての世界が神に服従するためであることを。二〇それ故に、すべての肉は業の律法に基づいてはご自身の前で義とされることはないであろう。というのも、律法を介しての[神による]罪の認識があるからである。
二一しかし、今や、[業の]律法を離れて神の義は明らかにされてしまっている、それは律法と預言者たちにより証言されているものであるが、二二神の義はイエス・キリストの信を媒介にして信じるすべての者に明らかにされてしまっている。というのも、[神の義とその啓示の媒介であるイエス・キリストの信のあいだに]分離はないからである。二三なぜ[分離なき]かといえば、あらゆる者は罪を犯したそして神の栄光を受けるに足らず、二四キリスト・イエスにおける贖いを介してご自身の恩恵により贈りものとして義を受け取る者たちなのであって、二五、二六 その彼を神は、それ以前に生じた諸々の罪の神の忍耐における見逃し故に、ご自身の義の知らしめに至るべく、イエスの信に基づく者を義とすることによってもまたご自身が義であることへと至る今という好機において、ご自身の義の知らしめに向けてその信を媒介にして彼の血における[ご自身の]現臨の座として差し出したからである。
二七かくして、どこに誇りはあるか、閉めだされた。どのような律法を介してか、業のか、そうではなく、信の律法を介してである。二八それゆえ、人間は業の律法を離れて信仰によって義とされるということを、われらは認定する。二九それとも神はユダヤ人だけの神であるのか。そうではなく異邦人たちの神でもあるのか。そのとおり、異邦人たちの神でもある、三〇いやしくも神はひとりであり[業の律法ではなく]信に基づく割礼者を、そしてその[イエス・キリストの]信を介して無割礼者をも義とするであろうなら。三一それでは、われらはその[イエス・キリストの]信を介して律法を無効にするのか。断じて然からず。むしろわれらは律法を確認する」。
〇信義不分離の福音の含意:豚には真珠ではなく干し草を与えることが、そのつどの最善の行為選択肢の事例となる。信の根源性による義と愛の対置から信義の不分離と愛の軛へ!愛敵に至る律法の「冠」愛はより根源的な神の義「信の律法」に包摂され、そのもとに生きる限り裁きあいは去りその都度最善の行為が識別され遂行される。
1、神の前の信義不分離(代罰説を克服する協働説)
鍵箇所は従来、信じる者のあいだ例えばユダヤ人と異邦人、ヒトラーに「区別(・差異)はない」と訳され、ひとが持つ心的態勢の信仰が「あらゆる者は罪を犯した」ゆえにひとしなみに区別や差異がないとされてきた。「しかし、今や[業のモーセ]律法を離れ」、神は死に至るまでの「イエスの信」の従順を嘉みし、もう一つの神の義である「信の律法」のもとにご自身の義を「イエス・キリストの信」を介して「信じる者すべて」に知らしめている。神はご自身の義と分離がないと看做す故に、まことの神の子にしてまことの人の子に帰属した信をご自身の義の啓示の媒介として用いている。「神はその彼をご自身の現臨の座として差し出した」。神は十字架上のイエスの身許にいまし共に罪の贖いを遂行した。神に嘉みされた信仰の持ち主は「イエスの信に基づく者」としてその信義の不分離の故に神の義に与り、自らの義認を知っている。
2、恩恵の無償性と責任ある自由の両立
この信義不分離の一回的な出来事が中間時において普遍的に適用されるべく三人称全称が啓示の差し向け相手に用いられる。これは神の前の即ち神ご自身による啓示行為とそのもとにある「神の知恵と認識」(11:33)からなる整合的な言語網を形成させる。義認の受け手のこれら三人称の選択は匿名性を確保することにより、贖罪はその都度の現在のことであることそしてそれ故に神の憐みによる予めの選びにおける恩恵の無償性とその都度の今・ここに生きる各人の責任ある自由の両立が神の知恵として表現されている。罪の赦しの「キリスト・イエスにおける贖い(:解放、買戻し)」とは「信の律法」のイエスによる充足故に、神は「イエスの信に基づく者を義とすることによってもまたご自身が義であることへと至る好機」においてそれまでの祝福と呪い、義認と罰のモーセの「業の律法」の適用からご自身を解放することであり、同時にその解放を信じる者にもたらすことである。
信徒は業の律法から解放され、より根源的な神の義「信の律法」のもとに信義不分離の道を神の前で歩む。「福音」は信の律法のイエスの充足により実現した父と子の信義不分離であり、「信じる者に救いをもたらす神の力能」である(1:16)。「わたしは[信の]律法により[業の]律法に死んだ」(Gal.2:19,cf.Rom.7:6,8:2)。同じ事態はローマ書ではこう語られる。「かくして、今や、キリスト・イエスにある者たちにはいかなる罪の定めもない。二なぜなら、キリスト・イエスにある生命の霊の律法が君を罪と死の律法から解放したからである」(Rom.8:2)。
3、三人称から一人称「われら」への義認の適用 (普遍的な真理の今・ここに生きる者への適用。ロゴスとエルゴンの補完)
パウロは「無から有を呼び出す」神への、子イサクの復活を信じたアブラハムのまた「不敬虔な」ダビデの信仰義認の事例を確認し、4章末尾で三人称による受け手の神の前の信義不分離が今生きるパウロを代表とする一人称「われら」に適用されるに「違いない」と推論の必然性を伴い提示する。「「彼には認定された」とは彼自身だけの故に書かれたのではなく、「認定されること」がその者たちに対してであるに違いないわれらの主イエスを死者たちから甦らせた方のうえに信をおく者たちである、われらの故にも書かれた。彼はわれらの背きの故に引き渡され、われらの義化故に甦らされた」(4:24-5)。「ローマ書」1から4章の議論は挨拶を除き聖霊への言及がなく、普遍的、無時制的に理解可能な「知恵の説得」ないし「知恵の説得的議論」と呼ばれる。
他方、神の愛は生身で生きている者にその都度の今注がれていることが「霊の力能」ないし「霊と力能の論証」として展開される (「われら」による聖霊の執り成しのもとでの信義不分離の証)。5から8章では一転して今・ここで「肉の弱さ」において生きている、「罪の奴隷」でも「義の奴隷」でもありうる相対的に自律した「われら」が主題となる。「神の愛」そして「聖霊」がこの弱き生身のわれらに注がれる。「かくして、われらは[イエスの]信に基づき義とされたので、われらの主イエス・キリストを介して神に対して平安を持している。その方を介してわれらは、そこにわれらが立っておりそして神の栄光の希望に基づき大いに喜んでいるその恩恵に対して、信仰によって近づきを得てしまっている」(5:1-2)。ここでパウロを代表する「われら」は自らの心的態勢「平安」「喜び」等の自ら選択できずに自然に湧き上がる受動的なパトスを義認の証として表明する。ここに「恩恵」の「神の前の自己完結性」の言語網と「信仰による近づき」の「人の前の相対的自律性」の言語網さらにその媒介者の「介して」の言語網が明晰に析出されるべく提示されている。聖霊の執り成しは「神に即して」(8:26)今生きる「われら」を十字架の過去の出来事「義とされた」と同化させることである。
パウロは言う、「神の愛はわれらに賜った聖霊を介してわれらの心に注がれてしまっている。・・キリストはわれらがまだ罪人であるとき、われらの代わりに死んだことにより、神はご自身の愛をわれらに結び付けていますからである」(5:5-8)。神による愛敵はあの十字架上の神とイエスの信義不分離の贖いの協働行為を証するものとして展開される。ロゴスの真理はエルゴンにより証され信じられる。「キリストの愛われらに迫れり」(2Cor.5:14)。
神のこの愛敵こそ父と子信義不分離の福音として十字架上のイエスに父が臨在することにより歴史のなかに打ち立てられた。神ご自身においては信、義そして愛はこのような形で信義の不分離の知恵と認識を証する愛の働きとして軛結合のもとに展開されている。中間時にある人の前においては信から義そして「義の果実」(Phil.1:10)としての愛へと一本道を歩む。愛があるところ、そこでは信義が証されている。イエスは言う、「この女性の多くの罪は赦されてしまっている、多く愛したことがその証である。しかし、少しだけ赦されているその者は少しだけ愛している」(Luk.7:47)。かくして、パウロを代表者とする「われら」は「われらの主キリスト・イエスにおける神の愛からわれらを引き離しうるものは何もないことを確信する」と高揚感のもとに賛美する(8:38)。
信徒は神の前の福音をその都度引き受ける。そこにおいてのみ神の憐れみの予めの選びの証となり、責任ある人生と恩恵の無償性が両立する。 パウロは「君は君自身の側で持つ信仰を神の前で持て」(14:22)と命じる。「わたし」が辛子種のなけなしの信仰で甦りの主を信じるとき、神の前の信義不分の福音に立ち帰るよう促されている。われらはその都度信じる、「彼はわれらの背きの故に引き渡され、われらの義化故に甦らされた」(4:24-5)と。
